専門知識と職業倫理

最も根本的な国民的検討課題は、倫理規範と相容れることのない拝金思想に束縛された資本主義からの脱出であろう。それは米国型資本主義社会つまり金融資本主義社会からの離脱を意味する。拝金と倫理は水と油の関係にあると考える。金融資本主義社会のもとでは、金融専門知識格差イコール所得格差となり、こうした社会で、「善い」生き方、「正しい」社会の実現を志す倫理観を持った専門職を養成することは、ほぼ絶望的である。21世紀のわが国知識社会を実り豊かな社会として花開かせるためには、金融資本主義を捨て、倫理観を中心に据えた日本独自の知識資本主義社会へ移行する必要があるといえるだろう。

第 2 の課題は、職業人への倫理教育に関することである。現在、大学では、実学中心のカリキュラム編成を行い、 1 年次の早い時期から実学知識を付与している。しかし、その基本方針は倫理教育に向けて根本的に改められるべきである。つまり大学教育を、哲学、心理学、倫理学などの多くの一般教養科目(リベラルアーツ)の充実に向け、それによって、若い時から、個人性と人間存在の社会性の関係を深く理解させることが重要なのである。

一方、現在の多くの企業では、学生採用基準の重点を、実務能力、コミュニケーション能力に置いており、「豊かな人間性を備えているかどうか」という倫理観に関する評価基準はあまり考慮されていない。その結果、学生の倫理観は希薄とならざるを得ない。企業が重要視する実務知識と実践能力の取得は、採用後に、企業自身のビジョンに沿って企業自身のコストで実施すべきではないだろうか。企業がそうした実務教育を大学に要請することは、企業が負担すべきコストを大学や社会へ不都合に転嫁していることを意味し、国民から、学生時代に学んでおくべき倫理教育の機会を奪っていることになるといえるだろう。

第3の課題は、専門職業人がとかく陥りやすい閉鎖性に関するものである。専門職業人は、専門知識の有償提供に関して国家資格という排他的特権を有していることから、専門外の人の意見を聞き入れないという傲慢さを持ちやすい。そうした傲慢的閉鎖性がコミュニケ−ション力不適格を招き、反社会的行為に結びついていく可能性が指摘できるのである。私たちは、そうした事態を生まないために、問題点の解決を専門職業人に任せきりにしないで、できるだけ多くの基礎知識を持ち、専門職業人と専門知識に関する意見交換を行い、その適用妥当性を常に確認する習慣を持つことが必要だろう。その実現のためには、私たちは、あらゆる知識の全体像を体系的に理解する方法を探究し、プロフェッショナルに対抗する知識を得る手段を所有することが求められるのではないか。その手段として、知識を収集し、知識ベースを構築し、その知識ベースに容易にアクセスできるディレクトリ体系を整備し、その専門知識を体系的に常時取得できる環境構築が急がれる。その点で、私たちが進めている情報ディレクトリ体系構築のための研究は、知識・情報格差によって被害を受ける可能性がある人々のためのインフラストラクチャ造りに関する研究でもあるといえよう。また、その構想は、あたかも、ルネッサンス時代に格調高く切り結んでいた芸術と科学という人間の二つの調和的対話活動を、科学的思考の偏重、実利の獲得志向のなかで、相容れない活動として分離させてしまい、膨大な無機質ともいえる人造物を手に入れてしまった現代社会の反省と重ね合わせることもできるといえるだろう。